釣れないほうが多いような釣りの話と
小さな家庭菜園のことを中心に
色々なことを紹介していきます
今日は恒例の初詣に行きました。
ここ数年は天気の悪い日が多かったんですが、今年は晴天に恵まれ暖かい初詣となりました。
最初は何時通りに宗像大社ですが、少し早く出発したおかげでそれほどつかえては無かったんですが、交差点の信号機のタイミングが悪くなかなか進みませんでした。
30分程でやっと駐車場に車を止め参道に向いますが、参道は人で埋まり前に進むのもままならない状態です。
境内も人、人、人、です。
ここでは早々と所作通りの2拝2拍手1拝でお参りを済ませ次の鎮国寺に向います。
ここでも例年通り健康祈願の護摩札を収めました。
境内には梅のつぼみが赤くなり開花を今かと待っているようでした。
最後は地元の伊豆神社でお守りや商売繁盛の熊手を買って今年の初詣は終わりました。
家に帰ってから一杯やっています、こんなことは正月だけです。
ここ数年は天気の悪い日が多かったんですが、今年は晴天に恵まれ暖かい初詣となりました。
最初は何時通りに宗像大社ですが、少し早く出発したおかげでそれほどつかえては無かったんですが、交差点の信号機のタイミングが悪くなかなか進みませんでした。
30分程でやっと駐車場に車を止め参道に向いますが、参道は人で埋まり前に進むのもままならない状態です。
境内も人、人、人、です。
ここでは早々と所作通りの2拝2拍手1拝でお参りを済ませ次の鎮国寺に向います。
ここでも例年通り健康祈願の護摩札を収めました。
境内には梅のつぼみが赤くなり開花を今かと待っているようでした。
最後は地元の伊豆神社でお守りや商売繁盛の熊手を買って今年の初詣は終わりました。
家に帰ってから一杯やっています、こんなことは正月だけです。
長崎鼻から霧島神宮ではなく磯庭園に来ました。
正式には仙厳園と云います。
ここは19代当主島津光久によって、借景技法により桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てて造園されました。
春には曲水の宴などが行われていたようです。
裏山の中腹にはこんなものもありました。
こちらは殿様の居間です。
正門です。
これらは大河ドラマの篤姫の撮影にも使われています。
こんな物もありました。
なんとシンプルな大砲でしょう。
殿様の鎧兜です。
写しとありますから復元されたものでしょうね。
このほかにも尚古集成館や薩摩切子なども見ましたが生憎撮影禁止だったので画像がありません。
ただ薩摩切子は製造過程が見学できましたので一枚だけ撮ってきました。
展示品ではこの大きさで3ケタ前後は要っていました。
私もぐい飲みが欲しかったんですが一つ30.000円では手が出ませんでした。
次こそ霧島神宮です。
正式には仙厳園と云います。
ここは19代当主島津光久によって、借景技法により桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てて造園されました。
春には曲水の宴などが行われていたようです。
裏山の中腹にはこんなものもありました。
こちらは殿様の居間です。
正門です。
これらは大河ドラマの篤姫の撮影にも使われています。
こんな物もありました。
なんとシンプルな大砲でしょう。
殿様の鎧兜です。
写しとありますから復元されたものでしょうね。
このほかにも尚古集成館や薩摩切子なども見ましたが生憎撮影禁止だったので画像がありません。
ただ薩摩切子は製造過程が見学できましたので一枚だけ撮ってきました。
展示品ではこの大きさで3ケタ前後は要っていました。
私もぐい飲みが欲しかったんですが一つ30.000円では手が出ませんでした。
次こそ霧島神宮です。
武家屋敷に続いていったのは、特攻平和会館です。
生憎館内は撮影禁止だったので館内の写真はありません。
これは建物の横にある三角兵舎です。
隊員が寝起きしていた所です
復元? された戦闘機と隊員の銅像です。
こちらはゼロ戦でしょうか?
館内には隊員の写真や遺書などがかなりの数が展示されていました。
その中の数点の遺書を読ませていただきましたが涙が出る思いでした、それに皆さん達筆なんですね。
その中の一点をSAMURAIさんのHPから借りてきましたので読んでください。
相花信夫(少尉 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳)
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと(ノート二頁に楷書ペン書)
今の18歳はどんな考えを持っているのでしょうか。
生憎館内は撮影禁止だったので館内の写真はありません。
これは建物の横にある三角兵舎です。
隊員が寝起きしていた所です
復元? された戦闘機と隊員の銅像です。
こちらはゼロ戦でしょうか?
館内には隊員の写真や遺書などがかなりの数が展示されていました。
その中の数点の遺書を読ませていただきましたが涙が出る思いでした、それに皆さん達筆なんですね。
その中の一点をSAMURAIさんのHPから借りてきましたので読んでください。
相花信夫(少尉 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳)
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと(ノート二頁に楷書ペン書)
今の18歳はどんな考えを持っているのでしょうか。
先週末にかみさんと二人で鹿児島に行ってきました。
高速を使って知覧の武家屋敷群まで5時間の行程でした。
ここでは7軒の屋敷の庭園を見学できます。
先ずは腹ごしらえをしてから向った最初の庭園は、森 重堅庭園です。
この屋敷の庭園だけは築山泉水式庭園と行って、池には水が張ってあり大きな鯉が泳いでいました。
次は 佐多 直忠家の庭園です。
ここからはすべて枯山水の庭です
続いて 佐多 美舟家の庭園です。
次は 平山 亮一家の庭園です。
ここは初夏になればサツキの花が一面に咲いて綺麗になります。
あと2軒残っていましたが後の行程の為に残念ながらここまでで終わりです。
この屋敷群の通りも石垣と生垣が素晴らしい景観になっています。
そして多くの屋敷では門を入るとすぐの所に石垣の塀があります。
これは戦の時、敵が容易に屋敷内に入るのを防ぐためと、塀の後ろに隠れて不意を衝くためのものです。
この後知覧特攻平和会館に行きます。
高速を使って知覧の武家屋敷群まで5時間の行程でした。
ここでは7軒の屋敷の庭園を見学できます。
先ずは腹ごしらえをしてから向った最初の庭園は、森 重堅庭園です。
この屋敷の庭園だけは築山泉水式庭園と行って、池には水が張ってあり大きな鯉が泳いでいました。
次は 佐多 直忠家の庭園です。
ここからはすべて枯山水の庭です
続いて 佐多 美舟家の庭園です。
次は 平山 亮一家の庭園です。
ここは初夏になればサツキの花が一面に咲いて綺麗になります。
あと2軒残っていましたが後の行程の為に残念ながらここまでで終わりです。
この屋敷群の通りも石垣と生垣が素晴らしい景観になっています。
そして多くの屋敷では門を入るとすぐの所に石垣の塀があります。
これは戦の時、敵が容易に屋敷内に入るのを防ぐためと、塀の後ろに隠れて不意を衝くためのものです。
この後知覧特攻平和会館に行きます。